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氣ってなんだろう
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■むさし先輩より。
「氣という文字は東洋独特の思想」・・私も氣というものに興味があり、いろいろ本を読みました。
なるほどと思うことがかいてありますが、なかなか実践できません。あごひげ先生は実践して氣というものを感じ取られているはずです。以下、私の考えでなく、本から学んでこのような考え方をしていかねばということを以下3つに分けて書き込みさせていただきます。
▲氣 その1
鶏が先か卵が先か。つきつめていかない限り、いつまで経っても堂々周りである。哲学的思想でつきつめていくと、一番はじめは卵でもないし、鶏でもないということがわかる。一番根本はなにかというと、ただ一つの実在から産み出されたものである。その実在とは何であろうか。科学では、これを、極微粒子的なものとして、“エーテル”と名付けている。哲学の方では、人間の感覚では捉えることが出来ない、漠然とした、見えざる一つの“氣”であるといっている。これを中国では“霊氣”と呼び、日本の儒学者は“正氣”と言っている。中国の宋代の儒教哲学では、これを“先天の一氣”といっている。そして電気や、磁気や、その他の火気とか水蒸気とかいうものは、“後天の気”といっている。いずれにしても、このただ1つのエネルギーを産み出す元が、宇宙を作り出したのである。
▲氣 その2
すべて“氣”というものは動かなければならない。
“氣”というものは一定一カ所に静かにしている気遣いはない。“氣”が動くと、動いた“氣”によって、物が創られる様になっている。エレクトロン、プロトンをダイナモに集約し、ワイヤーに伝え、線が無くても空気を伝って、これを受け入れる受信装置のあるところへ移せば、そこに、恐るべき力、熱、光が出てくる、つまりあおの電気というものである。これも“氣”が動いたからの結果である。“氣”が動いたときの、“氣”の元を、哲学では霊と言っている。霊というとすぐ魂を思い浮かべるが、それはいけない。霊というのは、極めてスーパーな、見えない氣に対する名称なのだから。この“氣”が動こうとするときに、現れる現象を「アイディア」という。人間でいうと、“心”ということになる。英語でアイディアというと、すぐ、人間の心を動かす心と思う人がいるが、それは間違いだ。アイディアというのは“氣“の動く場合における、現象事実に対する名詞である。“心”というものは、“氣”の能動を指して名付けた名称である。
▲氣 その3
心”というものが、“霊”という1つの“氣”の働きを行うとき、どんな現象を行うかというと、思考によってのみ“心”の活動は行われる、ということである。人間というものは、人間自身の心の中の思わせ方、考えさせ方が、自分の生命の全体を、強くも、弱くもするのだということを悟らなくてはいけない。人間として完全な生き方をするには、本当に心を積極的にしなければならない。いかなる場合にも「心を清く、尊く、強く、正しく」持たねばならない。現代の人間は、肉体が自分であると思っている人が多いのではないか。しかし人間というものは、その正体を突き詰めていくと、何も見えない、また感じない、霊魂という“氣”である。その霊魂が、現象界に命を活動させるために、その活動を表現する道具として肉体と心が与えられている。肉体が生きているのは、霊魂という“氣”の力が肉体を生かしているのである。「人間の生命に与えられてた活きる力というものは、肉体にあるのではなく、霊魂という“氣”の中にある」、「人間の健康も、運命も心1つの置きどころ」ということを、正しくはっきりと理解する必要がある。 |
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| NPO法人日本教育空手協会 Japan Educate Karate Association 統括師範小野寺脩(あごひげ館長) |
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