■あごひげ
空手は沖縄の禁武政策から発展した経緯があり元々我が身を守る武術であったことはもちろんです。ですが、ひとつ現代において忘れてはならないこと、それは沖縄の空手が本土に紹介されるにあたり、『沖縄の唐手から本土の空手』に変わったようにその目的自体も変化しているということです。危険な業だからこそ自分を戒める、自分を制することの出来る人格を同時に磨け、ということになります。
開祖、船越先生は『空手に先手なし』ほか松涛二十訓を私たちに残しました。言わば、現代の競技スポーツ空手の先手必勝とは考えが180度違っているのです。競技では如何にして相手よりも早く突き蹴りを出すかですが、実践の場合は、今やったら完全に正当防衛が成り立つという時点でしか使えないと自分を戒めておく必要もあります。現代ではすぐ裁判になりしかも自分では正当と思っていたことでも相手の弁護士次第で自分が犯罪者にもなりうる、こともあるわけです。
『いかなるときも空手を使ってはならない』、これはギリギリの段階まで待てという意味です。空手の稽古を積む目的が100人が全員我が身を守るためということで強さのみを習得しようとしているわけではありません。年をとってくると周りの人たちの死によく出くわします。親戚のおじさん、知り合い、お世話になった人など、年齢が高くなるに連れて大事な人が他界したりします。でもそういう中でも、殺された、と言う人は私の周りではいません。今後はどうか分かりませんが少なくとも、万が一というのは極端に少ない確率でしかないわけで、むしろ死の確立が高いのは病氣や老齢化、その次の交通事故などの不慮の事故です。まだまだ日本は平和であり、自分から危険な場所に近づかない、あるいはその臭いを察知する氣構え、心構えをもって居るならば、少なくとも殺される確立はもっともっと低くできるわけです。
| ◆我が身を守る、護身の意味
私が『我が身を守る』とか、『護身』を考えるときは、一応指導者の立場として、元々ひ弱な女性や、最初から体力がない、腕がかぼそいなどの人が護身として捉える場合のことです。理想は自分が強くなり、いつ如何なるときでも闘える力がある、ということでしょうが、みんながみんな、空手をやって、自分よりもデカイ暴漢に立ち向かえるような空手家に上達するとも思えません。空手をやる目的や、自分の置かれた環境がみな違うのですから、最初から『万が一』のときにと脅しても、そういう場面に何度か遭遇しない限りは本氣で取り組むこともないでしょう。もともと非力な人間が、大男や数人に取り囲まれたときどうするか・・・。それは、第一にまずそういう場面を作らないこと(そういうところに近づかないこと)であり、第二に、そういう場面では大声を出せるようにしておく(普段から礼儀正しくハキハキ行動できるようにしておく)ということ、第三に一撃を食らわせて如何に素早く逃げるか(瞬時の判断ができるようにしておく)、そしてそれでもつかまった場合においてのみ、『万が一』の手立て(必死で逃げるために)ということになります。
◆空手家がイジメ対策?
よく新聞などで、空手家が『イジメ対策に乗り出す』ということを聞きますが、宣伝効果の狙いにしか見えません。安易に『空手をさせればよい』という単純なものではなく、さらにもう一段階上での捉えかたが必要です。私はこれまで三十数年の指導者人生の中で十回以上のイジメ(られ)問題に関わって来ました。あるときは稽古中にとんでもない実態を・・聞いたのでそのまま本人を連れて相手の何人かの家に次々に!直談判にいきました・・、またこのことが町の議会で問題にされたこともありました。(途中に非難を浴びたが必死で事に当たったことが結果的に校長先生にのちのち感謝されました)
集団、暴力的なイジメ、言葉の暴力や無視など、ケースは多岐にわたり、一概に「あんた、空手をしなさい、強くなればイジメはなくなる!」と言うわけには行かないのです。『自分は空手が強い』と思う人が、こうすれば強くなれるから空手をしなさいみたいな、人間の性質、性格、体力、そして学校と家庭での環境部分などすべての面を的確に把握した上での『現地行動』でなければ、言葉だけでは状況は何ら変わらず、けっして救うことはできないのです。。※その程度にも寄りますし、本人の被害妄想や教育現場から逃げ出したい心境からのものもあります・・。
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